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西友元町事件の考察〜道民は情けないのか
橋本努

 

リード文・ この数年、日本を席捲したかのように「食」をめぐるトラブルが続出した。その極めつけとも思われる騒動が札幌の新興住宅街で起きた。発端はスーパーの輸入肉偽装だが、他地域にはなかった返金を巡る偽装購入者の発生。そうした行動を生む地域の特性とは? 本誌初登場の若手経済学研究者の橋本氏が考察する。

 

 【事件はインターネット普及のせいか】

北海道新聞は法政大学社会学部の稲増龍夫教授(社会心理学)のコメントとして「ネット社会で情報伝達のスピードが格段に速くなり、混乱に拍車をかけた面もある」というようなことを載せた。また西日本新聞は、北海道教育大学(旭川校)の村田育也助教授の言葉として「匿名性のあるインターネットの世界では、うわさや今回のような『もうけ話』が、他人の目を気にせず一気に伝わる」というコメントを載せた。いずれもインターネットが急激な混乱の原因であるとみなしているが、しかし本当であろうか。

 こうした報道は一見説得力をもつ。が、しかし今回の事件が札幌で起きて他の地域では起きていない、という違いをどのように説明できるだろうか。インターネットが発展している国内であればどこで起きてもおかしくない。ではなぜ札幌で起きたのか。原因はむしろ、インターネットや携帯電話の問題とは別のところにあるのではないか。

 

【人々のモラルに対する批判】

今回の返金要求は、あまりにもあさましく、いっしょに同じ街を生きていることが恥ずかしくなるような行為であった。偽りの返金要求のために、自分の身分証明書を提出してもかまわないというのは、通常の道徳感覚では説明がつかない。

インターネットにおける匿名の掲示板で他人の目を気にせずに情報が飛び交う、ということよりも、人々が行列に加わることに恥じらいを感じないこと、そして実際に返金を受けた当の本人が、自分の周りの知人たちに、「タダでお金がもらえる」という情報を流したことの方が問題だ。こうした振舞が、自分の仕事や地位を脅かすようなことにつながるのではないか、というリスクに対して、人々はどうして無頓着でいられるのか。

 この道徳感覚のなさは、二つの点から説明されるのではないか。

一つには西友側が牛肉を偽装したことに対する人々の憤懣があって、それが返金要求者たちの道徳水準低下につながっている、というもの。

もう一つは、返金を受ける行為を他人に話すことが、自分の人格性に対する批判につながらないだろう、という札幌市民の道徳感覚がある。

つまり人々が、そうした行為を蔑むのではなく、「儲かってよかったね」「うらやましい」といった感覚でしか応答しない、ということが問題なのだ。

 事件がなぜ起こったのかに関する詳しい事実関係や影響関係はまだ分からない。しかし興味深いのは、一部の札幌市民がこれを「道民」のモラルの問題として真剣に受け止めたということだ。バクチ的な金銭感覚によって通常のモラルや人間関係が蝕まれているということを、少なからぬ多くの市民が認識している。そしてそのこと自体が、この事件を象徴的なものにしている。道徳に対する衰退の感覚はそもそも、北海道の経済自体が、国の補助金によって偶然ながら潤ってきた、という歴史を映し出しているのかもしれない。

 

【モラルが低いことの原因:(1)官僚主導の事務的個人主義】

 ではなぜ道民や札幌市民のモラルが低いのか。その原因は、一つには、官僚的合理主義の中で培われる「事務的」な個人主義にあるのではないか。そしてもう一つには、西友を含めたその地域の都市計画における「場所性のなさ」にあるのではないか。

 マックス・ウェーバーが分析したように、近代における「官僚制」、すなわち「お役所」による仕事の配分によって合理的な上意下達のシステムを作り上げることは、諸個人の関係を「事務的」で「無味乾燥」なものにし、感情を交えた人間的な表現や関わりあいを抑制する習慣が生まれる。感情を交えない分だけ、人間は組織の中にいても孤立した個人主義者でいることができる。また組織の外部では、匿名の個人として自由に(誰にも気兼ねなく)振舞うことができる。仕事が終われば何をやっても、それを道徳的にとがめるようなコミュニティの紐帯がない。札幌は官僚主導型の仕事配分によって特徴づけられる社会であることから、西友元町事件のように恥も外聞も気にしない個人を多く輩出しているのだ、という説明が可能だろう。

官僚主導型の社会は、市場主導型の社会とは大きく異なる。

発達した市場社会では、どの企業も他社と切磋琢磨するために、集団内部での連帯感を必要とする。会社共同体の形成によって、そこに「人の目を気にする世間」が生まれる。また組織の外部においても、世間の中でどのように振舞うかは、会社組織に対する評価にもつながることから、人々は社会的評価や地位に対する不評を恐れている。これが形式的な官僚主導の社会では、プライバシーに関することを仕事の業績に結びつけるような人事管理をしない。ウェーバーの言葉を用いれば、形式的合理主義の社会である。この官僚的な形式性の徹底が、かえって人々の道徳基準を育まない結果となる。都市に流入する若者たちを道徳的に鍛える場を提供するのは、官庁の機能ではない。むしろ官庁は、自生的に生じるであろう同業者組合などがもつ共同性の芽を、あらかじめ摘んでしまうことにもなる。

 

【モラルが低いことの原因:(2)場所性のなさ】

 モラルの低さは、札幌という人工的な都市計画の産物でもあるだろう。

東区にある西友元町店は、地下鉄元町駅から歩いて約10分。駅前の交差点は、銀行やコンビニや消費者金融の店舗がそれぞれ数種類もひしめいており、大変便利なのだが魅力がない。駅から元町店までの道のりにも、個人経営の理髪店以外は、大手資本の店(ガスト、バーミヤン、ケンタッキー、ツルハドラッグ、海天丸など)が立ち並ぶだけで、街の個性がなく多様性もない。どこにでもありそうな、場所性のない街である。

 また創業24年になる西友元町店は、この街の開発とともに歩んできた郊外型の大店舗であり、2-3万人の住民を顧客としている。営業の当初から、西友はこの街のコミュニティとともに成長してきたはずであり、他の地域では「商店街」が果たしていた機能(例えば住民のニーズに応える「感謝祭」や「ふれあい」の場の創出など)を引き受けることで、街づくりの一端を担ってきたはずである。

 これがもし、さらに郊外にあるメガ・ストアになると、コミュニティの外部に位置することから、街づくりの機能を担うことはない。コミュニティの存在を前提としなければ、「現金の返金」という方法は通用しない。なぜなら、偽りの返金要求を防ぐことができるのは、そこに虚偽報告を抑制するだけの「人と人との人間的なつながり」がコミュニティ内部で確立している場合のみだからである。しかし西友元町店は、当初からコミュニティ機能の一部を引き受け、たとえ幻想としてであれ、「街に奉仕する」という姿勢が経営戦略上重要となっていた。しかし今回の事件は、西友元町店がそうしたコミュニティの機能を引き受けられなかったこと、そもそもコミュニティの感覚が幻想であったことを示した、と言えるのではないか。

 エドワード・レルフは『場所の現象学』(1999)において、個性がなく規格化された景観をもつ街を「没場所性」という言葉で表現した。都市のどの場所にいっても同じようなものが広がるようなところでは、それぞれの場所にかけがえのない意味を見出して「住まう」という感覚が育たない。結果として人間は、生活全体に文化的・道徳的な意味を見出すことに無関心となり、道徳感覚が低下して、ライフ・スタイルの模索すらしなくなる。東区元町に代表される近代的な都市の空間は、なるほど効率的で快適な空間ではあるが、しかしそのことがかえって、新たな発展を拒んでいるところがある。効率性を重視する社会は、文化的発展のために必要な都市のダイナミズムを生み出せず、結果として、画一的な状態のまま停滞するということになる。

 

【都市の衰退と復興の決め手になるもの】

 最後にジェーン・ジェイコブズの代表作『アメリカ大都市の死と再生』(1961)は、ニューヨークという碁盤の目の街が、1950年代における開発によっていかに荒廃したか、という問題を扱っているが、彼女の視点を紹介して本稿を締めくくりたい。

マンハッタンが荒廃していく様は、都市の空洞化、白人の居住者が激減してそこに新しい移民が流入し、麻薬常用者が増える話として日本でも有名だ。そのマンハッタンの北側に位置するブロンクスという街の変遷が、今回の西友元町店事件にヒントを与えている。この地は、官僚主導で大規模な開発が行われたところであり、画一的な住宅街、商店街が作られていった。高速道路で地域が分断されたり、公園地域に高層の公共住宅が建てられたりした地区でもある。地域タウン誌でもブロンクスの情報は面白くないというのでおざなりの扱いしかされていない。とりわけ1960年代以降、この荒廃は、アメリカ社会特有のドラッグ、銃などの氾濫で学校も機能しなくなるほどであった。日本はそこまでにはならないが、都市の犯罪はそうした都市機能の魅力と多様性に依存する。そこでジェイコブズは、こうした都市の荒廃を防ぐために4つの視点を示している。ここでは特に、日本に関係すると思われる2点を紹介する。

 経済的な停滞は、道徳的な低下を生むものである。それは都市機能の衰えにほかならないが、それを防ぐには、一つの地区が2つ以上の機能を果たすべきである。郊外だから住宅街にするというような機能や用途を指定して効率的に管理するよりも、街の機能を混在させることで街の魅力は高まる。これは、ブロンクスに隣接するハーレムで成功させた手法である。ショッピングモールにコミュニティセンターを併設するようにして、地区の機能を重層化させたのである。

 もう一点は、地区には建てられた年代の違った建物が混在する必要がある。官僚主導で一気に作られた街は、時間性がなく、古いものと新しいものが混在していない。開発された当時は、こぎれいなものが並んでいても、20年後、30年後には個性が消滅する。また建物の高さが規定されるのも良くない。高さの規制は街の景観にリズムを生まない。街にダイナミズムが生まれるためには、さまざまな異質なものが混ざり合うことが条件になる。

街は多機能な都市空間、年代の混在する景観がなければ、経済的な停滞、そして道徳的な退廃を招くというのが、ブロンクスの誕生と衰退を通してアメリカでも実証されている経験なのである。

 

橋本 努*1967年東京生まれ。東大大学院博士課程、単位取得退学。99年学術博士号(課程博士)取得。96年北大(経)専任講師となる。担当講義科目「経済思想史」。98年同学部、助教授となる。00−02年ニューヨーク大学客員研究員。著書に『自由の論法──ポパー・ミーゼス・ハイエク──』創文社、『社会科学の人間学――自由主義のプロジェクト』勁草書房。ほかに編著、共著など。

E-mail : hasimoto@econ.hokudai.ac.jp